日本では今,外国人排斥運動に近しいものが起きているように思います.誤解のないように言っておきますが,現在の入管法や憲法などに,グローバル社会における致命的な脆弱性がいくつか存在することは理解しております.改革が必要であるとも思います.ですが,それが,日本を好み, 日本で正しく生活している多くの方々 を含む外国人全般に対するある種の迫害に転じている節があるのではないでしょうか.

サレジオ会のある出版物で, 「単に仲良くしましょうでは,外国人と共存することは難しいだろう」 と書いてあったのをふと思い出しました.なるほど,口では「異なる相手を認める」などと言いながら,実際にはしごく労力を要求することであるのでしょう.

異なるものを排除しようとする傾向は,なにも日本国内に限ったものではありません.

一方で世界では今,イラン情勢の悪化とそれに伴うホルムズ海峡の封鎖などで,各国が大変な思いをしていると報じられています.なぜそのような悲劇が起きてしまったのか,起きなければならなかったのか.これは,人類が今後発展し, 「神の領域」 をますます支配するようになるであろう近未来,避けては通れない問題であるように思います.

あるイラン人の男性がテレビのインタビューで仰ったことが印象的でした.

戦争をやって良いことは一つしかない.それは, 戦争をしてはいけない ということが理解できると云うことだけだ.

まず一文目だけ聞いた時,若干驚きつつも,外国の方なので日本語を間違えたのかなと思ったのですが,二文目を聞いた時になるほどなと思いました.

それでも戦争をしてしまう人類がある.本能的に人間は競争を好むなどと言われますが,だとすればそれを不可抗力で済ますのは二流であり,その問題と向き合う姿勢が,「神の領域」まで支配する力を手にした我々が,自ら 「栄光ある滅亡」 に走らないためには必要なんじゃないでしょうか.

トランプ氏は,対イラン攻撃を正当化する理由として,「イラン社会の民主化をアメリカが主導する」と言いました.おそらく魂胆は石油利権が欲しいだけだと思いますが,これに乗っかったのかどうだか,「イスラム社会の女性問題」とか「束縛的に見える信仰のあり方」などを非難する声が世間で拡大しているのもまた事実のように思われます.

果たしてこれが正しい批判であると云うふうにはどうも思えないのです.

というのも,自分は先日,岡 真里 さんの 「虚ろなまなざし」 を読ませていただいたのですが,ひじょうに痛いところを突かれるとともに, モヤモヤする部分が明かされるような快感も味わった のです.

具体的な内容をここで触れるのは控えますが,かいつまんでいうと,自分の先入観や常識が相手に通用するとは限らないと云うことだと思うのです.

イランの今回の例に当てはめると,女性問題について例えば「西洋は女性へのヒジャブ等の着用の要求を,迫害だと思っているが,実際には,現地では男性から身を守ると云う感覚があったり,砂漠地帯ですから肌を日光や砂から守るという実利もあったりする」わけで,これを西洋が頭ごなしに否定するのは,それ自体がもしかするとイスラム圏の人々にとってアイデンティティ自体が否定されたように感じるかもしれないなどと云うことは, 自分達の常識を信じきっている限り思いもよらない のです.

と云う意味で,「異なる相手を認める」と云うのは,軽々しく言われることですが,実際には,自身の「常識」を押し付けないように細心の注意が必要であることと,それを取り除くための究極の 謙虚さ が求められるのではないでしょうか.

これを機に自分の言動を見直してみようと今思ったところです.